日本人のイタリアン好き
ヨーロッパ諸国の中でもイタリーは日本人にとって人気のある国ですが、ファッション関係はもとよりイタリアン料理ファンが多くなっています。
現在の日本人のスパゲティーの消費量は本場のイタリアにも負けないぐらいになっていますように、最近の家庭料理の中にもかなり浸透した外国料理になりました。
日本人は昔から、うどん、蕎麦、素麺などの麺類が大好きですから、イタリー料理にはスパゲティー、ラザニア、ニョッキ等のパスタ類や米を使ったリゾットがあるので日本人向きの料理なのでしょう。
さらに、フランス料理などに比べて脂っこくない事と新鮮な食材をシンプルに炒めたて素材の味を生かして美味しく食べられる事が受けたのかもしれません。
昭和時代の30年ぐらいまでの日本人が知っていた西洋食はフランス料理でしたが、この時代まではイタリアンは殆ど知られておりませんでした。
イタリー料理として知られていたのは、見よう見まねで作ったナポリタンやミートソースのスパゲティーが知られているだけでした。
当時は六本木のニコラスというレストランがピザをメニューに入れて一部の新し物好きな人たちの間で人気がありました。
昭和37年頃、イタリアにいたことのあるオーナー夫婦が東京の港区の飯倉片町に小さなイタリアン・レストランChiantiを開店して一部のアーティスト達の間で人気が出るようになります。
このオーナー夫妻は、自分たちの好きなイタリアの家庭料理をメインメニューにして日本人の感性で工夫したオリジナリティーのあるメニューを提供して評判になりました。
日本でのイタリアンは、この様な時代を経てきましたが現在では全国いたるところにイタリアンがあり、少々過当競争気味になっているぐらいに普及しています。
日本における外食産業の歴史「パート1」
日本史における外食産業の歴史を調べてみますと、飲食を生業とする店が登場するのは室町時代の絵画などに神社仏閣などにお参りに来る人々にお茶、小料理などを提供する「茶屋」の姿が描かれております。
本来の日本人の生活には飲食店と言う発想が無くて、外食と言えば寺などに来る檀家の方に寺でお茶や菓子を振舞うぐらいで有りました。
また、人々は何かのお祝い事がある時には誰かの家に酒や野菜などの食材を持ち寄ったりして集まっては、女達に調理させて皆で楽しむ事があったようです。
武家屋敷やお金持ちの商人の家では必ず大きな広間が備えられていて、客人が来ると女将と下働きの人たちが料理を作って振舞う習慣がありました。
当時の奥方たちは嫁入りする前から母親から料理を仕込まれていたものですから料理自慢の奥方が多くいました。
この様な武家屋敷は江戸時代が終わって明治維新の文明開化とともに武士では食べて行けなくなりましたので、料理自慢の奥方が女将になって料亭として開業する事が増えてきました。
これが、戦後も長く続いた一流料亭の始まりで屋敷の主人は元々くらいの合った人たちですから自分の知人に利用して貰うために奔走し、奥方が料理屋の女将として料理と接待に明け暮れました。
また、江戸時代には東海道や中山道などの宿場町には旅人が宿泊する旅籠と呼ばれる旅館が有りましたので、この旅籠でも食事の提供をしておりました。
江戸時代の初期のころに浅草に出来た「飯屋」と呼ばれる飲食店の「奈良茶」というメニューが人気を博しましたという井原西鶴の記述にあります。
記録によれば「奈良茶」の献立内容は{茶飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆}でした。→次章へ続く
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